out of control  

  


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 なんというか、あいつは昔っから冷静沈着ぶって、肝心なところで抜けてるというか、詰めが甘いというか……。
 今回聞かされた話にゃ俺も大概驚いて赤面したが、それどころか燃えちまうんじゃねえかってぐらい真っ赤になって飛び去ったネサラの後姿を見送った俺は、しばらく阿呆のようにぽかんと口を開けて瞬きさえ忘れていた。
 誤解を解いておけって言われても、なあ。俺はつまりあれだ。加害者なんだろ?
 加害者である俺が口を酸っぱくしていくら弁解したところで、信じてもらえるとあいつは本気で思ってるのか?

「やれやれ、鴉王はべそをかいて逃げたか。あれではまたいらぬ誤解が広がりそうだな」
「……あんた、楽しんでないか?」
「楽しんでないように見えるのか?」

 どうしたものかとようやく考え始めたところで砂漠の向こうにある幻の王国、ハタリの狼女王に不敵な笑みを浮かべて言われて、俺はただ苦笑がこみ上げた頬を撫でた。

「今からクリミアなんて、食事も摂らずに……」
「ネサラ、おなかすいたらかわいそう。わたし、いっしょに行く」

 リュシオンは心配そうに、健気なリアーネはいそいそとネサラの好物であるチーズをはさんだパンを布巾に包んで行こうとする。
 気持ちはわかるが、ネサラはすばしっこい鴉の中でも一番の翼だ。いくら鷹に比べて長距離は苦手な鴉と言っても、鷺の翼じゃとても追いつけねえ。

「リアーネ、今からじゃ無理だ」
「でも、ネサラのごはんっ」
「今朝は俺がしっかり食わせた。それを貸せ。ヤナフにでも追いかけさせるさ。――ウルキ! ヤナフをここへ呼べ!」

 空に向かって声を掛けると、俺はリアーネが心をこめてパンを包んだ布巾に分厚い肉を挟んだパンもいっしょに包んで、ついでにデザートとして入っていたよく熟したユクの実も添えてやった。

「ティバーンさま……ホントにネサラ、いじめたの?」
「いや、そんなつもりはねえが」
「だってネサラ、ティバーンさまのうでの中、イヤだって。すごく、はずかしいって」

 恥ずかしくて嫌だっつーのは大方、話を聞いて意識しちまっただけだろうが、いじめたって言われるのは正直堪えるな。
 そう思って黙り込んだ俺をどう思ったのか、あどけない言葉で、でもリアーネなりに真剣に訊かれて、俺はちょっと考える。
 無理は……ああ、確かにさせてたな。ただあいつは未だに自分が生きて赦されるなんて申しわけねえってあんまり思い込んでるから、少しでも自分がいなけりゃ駄目だ。だからこそ命を残されたんだって思やいいと考えて、わざと片っ端から仕事をさせてたってのはある。
 どんなに落ち込んでも、思いつめても、人ってのはくたくたになるまで働きゃ眠れるもんだ。
 身づくろいには過ぎるほど気を遣うあいつが上着もその辺に投げて俺の寝床にごそごそもぐりこむ背中や、隣でぐっすり眠り込んだ寝顔を見られるならって気持ちはあった。
 最近はうなされてなかったしな。このままあいつの気持ちを変えて行けたらなんてのは、どうやら甘かったようだが。

「ティバーン……あの、ネサラはあなたを嫌っているわけではありません」
「ん?」
「ネサラの態度はいつもあの通りで、物心ついて…特に鴉王になってからは憎まれ口ばかりでしたが、本当は一度も心からあなたを憎んだことはない」

 ヤナフを待ちながらさて、どうしたもんかと考えていたところで、リュシオンが遠慮がちにそんなことを言ってきた。どうやら心配させちまったようだな。

「ティバーンさま、知ってる。ね?」

 続けてリアーネがぐいと腕を引いて覗き込んできて、俺は笑って頷いた。

「ああ、わかってるさ」

 雛の頃はただひたすら可愛かった。少し大きくなって生意気になっても、やっぱり可愛かった。
 鷹は鴉を毛嫌いする連中が多かったが、俺はそう思わなかったな。
 もちろん、雛時代を知ってるってのも大きいだろうが、ネサラだけじゃねえ。ニアルチのじいさんや、かつてのセリノスで時々顔を合わせた鴉の連中のことも嫌いじゃなかった。
 もっともそれは俺の方だけで、向こうはこっちを避けまくってたけどよ。
 遠目にでもわかるさ。あいつらの性格なんてな。ましてこっちにはラフィエルとリュシオンがいる。二人の口から語られる鴉の民の性格は、決して悪いものじゃなかった。
 そしてリュシオンだけじゃねえ。ロライゼ様はもちろん、王妃も、ラフィエルやリーリアも……白鷺の連中が愛してやまない蒼鴉のネサラは、幼い頃からいっぱしの風使いの才能を見せていた。
 ラグズってのは鷺と竜鱗族は別として総じて魔力は低いもんだ。だがネサラは雛の頃から魔力を感じるとラフィエルが言っていた。
 リュシオンと同い年に見えるぐらいにはもう、荒れた風を翼と魔力で馴らして飛ぶようなことをやってのけたほどだ。
 こいつは、いつか王になるかも知れねえ。じゃれついてきたところを膝に抱えるとくすぐったそうに笑う無邪気なネサラを見ながら、そんな日が来れば良いと楽しみにしてたっけな……。
 あの頃の俺は、次の王位に挑戦することを決めた立場だった。当然、負ける気はねえ。だとしたら、俺が王として付き合うことになる鴉王がどんな人物かってのはでかいからな。
 ……鴉王はベオクでもありえねえほどの早さで代が重ねられて行ってたが、それでもまさかあいつがガキの内に王位に就くことになるとは露とも思っちゃいなかった。あいつの前には、あいつの親父さんもいたしな。
 ただ、ネサラが王位につけば少しは鷹と鴉の関係も良くなるだろう。
 そう思ってたんだが……。
 前の鴉王も、若い内は優しい性格だったらしい。けど、王位に就いて変わったという。まさかと思ったんだがな。あれだけ強かったあいつの親父さんが死んで、普通なら考えられないような年齢で鴉王になったネサラも、まるで洗脳でもされたんじゃねえかと疑うほどに変わっちまった。
 ……あれだけ貧しい国だ。背負い込むのは並大抵の苦労じゃねえ。それでも、ニンゲンどもと取引するぐらいなら、俺たちと生きていけばいい。そのぐらいの余裕は、前王と、そして俺の代で作り上げた。そんな思い上がりもあった。
 なにより、自分で自分の評判を落とすあいつに腹が立った。……違うか。
 どんなに押し殺しても、本性ってのは殺せねえもんだ。なにより、リュシオンが離れねえことでわかったことがある。
 誰にも言えずに重いモンを抱えてる間にも、ふとした油断からリュシオンにばれちまう危険を冒してでも、ネサラはダチであるリュシオンを思い切れなかった。
 セリノスのことがあって会う機会はめっきり減っちまってたが、それでもなにかの折に会えた時にゃどれだけあいつが喜んでいたか、隠し切れずに浮かぶ笑顔でわかった。
 それが、あいつの言い出せねえ苦しみをなによりも雄弁に伝えていたことに気づかなかったのは、俺の鈍さだな。
 それに、これはリュシオンには痛い話だ。
 見せたくねえ心の部分に蓋をしながら空を見ていると、ふとリアーネとは反対側に柔らかな手が触れた。ラフィエルだった。
 視線をやると、兄妹の誰よりもロライゼ様に似た深い色をした目が優しく俺を映している。
 ………隠せねえな。こいつにだけは。リュシオンには黙ってろ、なんて言うまでもねえから視線だけで頷くと、ラフィエルはひっそりと微笑んで言った。

「ヤナフですよ」

 俺が視線を戻すよりも早く、軽い羽音が聞こえてきて小柄なヤナフがひらりと俺の前に下りた。

「王! お呼びで?」
「おう、呼んだぜ」

 短くするとちっとも言うことを聞きやがらねえと伸ばして頭の後ろで団子にした金茶色の髪、翼と同じ目の色をしたこいつは、どっからどう見てもやんちゃなガキにしか見えねえがこれでも実年齢は俺より上の鷹の戦士だ。

「ん、なんだ、こりゃ」
「ネサラの弁当だ。これと水を持ってクリミアに向かってくれ」
「はあ? あいつ、手ぶらで…ってあいつのことだから書類は持ってるか。出て行ったんですか?」
「ああ。朝飯は食わせたんだが、あの分じゃ下手すりゃクリミアにつくまで飲まず食わずで行っちまいかねねえからな」
「それで倒れるほど間抜けじゃあねえだろうけど、了解です。じゃあ行ってきますよ!」

 俺が押し付けた包みを小脇に抱えて笑うと、ヤナフはそれ以上何も訊かずに飛び立った。付き合いが長い分、余計な説明がいらないのがヤナフとウルキのいいところだな。
 小さな後姿を見送ると、俺は「さて」と伸びをしてどっかりと弁当の傍らに座り込んだ。
 リュシオンたちは落ち着かねえようだが、今ここで焦ったところでなにかできるわけでもねえ。なにより、せっかくニアルチが用意した飯を食わずに残すなんて真似はできねえからな。

「ネサラいなくてさびしいね。ヤナフ、だいじょぶ?」
「ああ、きっと追いつく」

 遠ざかった小さな背中を見送ったリアーネの呟きに頷くと、ようやく落ち着いてくる。
 ここに集まる面子のことを考えてバスケットの中に詰められた料理には、あのじいさんの深い愛情が込められていた。
 フェニキス以上に、セリノスは豊かだ。それなのにいつまでも腹いっぱい食うことに抵抗を感じるネサラのために、じいさんはいつでも気を遣っていた。
 特にリュシオンたちと食事を摂る時にはネサラの好物をさりげなく多く入れて、少しでもあいつが口にできるように工夫している。
 リュシオンとリアーネ、それにラフィエルがいればきっと食わせてくれる。そう思ってるからだ。
 ……今回は、俺のせいで食わせてやれなかったがな。
 先に腰を下ろして他愛ない話を始めたラフィエルに続いて二人も座って、ようやくぎこちないながらも昼食会が始まった。
 ニケが聞きたがってネサラ本人のいないところで思い出話で盛り上がったり、真面目なリュシオンがまだ作りかけの新しい鳥翼の国の法について熱心に考えを聞かせてくれたりと、最初はずいぶんぎこちなかったんだがな。ピクニックだと思っていたささやかな昼食会は、意外なほどに有意義なものとなった。

「――さて、外交官殿が一人仕事をしている間にあんまりさぼると後がうるせえし、俺はそろそろ仕事に戻るぜ」
「鳥翼王は意外に真面目なのだな。良いことだ。新しい国の王はそうでなくては」
「おいおい、あんたも王だろうがよ。歴史ある国の王も同じだと思うぜ?」

 名残惜しげに俺を見上げたラフィエルの横からからかうように言われて、俺は色っぽい女丈夫のニケに答える。
 死の砂漠を越えるのは大仕事だ。ましてラフィエル連れとなったらな。もう少し落ち着くまでってことでここにいるが、本来だったらこんなに長い間国を空けていて大丈夫なのかと訊きたくなる。
 まあ、ニケに比べりゃまだ若造の域を出ねえ俺がそんなことを心配するなんざおこがましいが。

「では、ティバーン。私も自分なりにもう少しこの案件をまとめてみます」
「わたし、ニケさまとネサラのお洋服、ぬうの。つぎは、ティバーンさまにもぬってあげる」
「おう、二人とも楽しみにしてるぜ」

 生真面目なリュシオンと無邪気なリアーネに笑って頷くと、俺はばさりと勢いをつけて飛び立った。
 見送る面々に手を振るのもそこそこに、そのまま執務室を目指す。
 一人になって考えるのは、やっぱりあの噂だ。俺がネサラを女代わりにしてるだと? なんだ、そりゃ!?
 なるほど。そう知って飛んでいれば、あちらこちらからなんとも言えねえ視線が突き刺さってくる。
 意識してみりゃこめられた感情もわかるもんだな。
 鷹の連中の方は面白がってる分も相当含まれてるからまだしも、鴉の連中は深刻かも知れん。怒りよりもなによりも、悲壮感さえ漂ってるってのが問題だ。
 キルヴァスはフェニキスを裏切った。だから逆らうことはできない。民を盾に取られりゃ、鴉王だったネサラがなにを要求されようと俺に服従するのも仕方ねえってところか?
 ………いかん、自分で思いついてムカついたぜ。
 大体、あの元老院のクソジジイどもに散々な目に遭わされただろうネサラを、どうして俺まで虐げなけりゃならねえんだ?
 女に不自由してるわけでもなし、もし不自由してたところで合意もなくそんな無理強いできるかよ。
 誰がそんなしょうもねえことを思いついたんだか、一番先に口にした奴を殴り倒したいとこだぜ。
 執務室に入って人目がなくなったのをいいことに苛々と椅子を引き、書簡がごっそりと消えているのを見てため息をつく。
 ……国外向けのものは軒並み消えてんな。ってことは、全部回ってくるまで帰らねえつもりか。あいつが本気で馬鹿馬鹿しい噂が消えるまでトンズラこく気なのがわかって、そこだけはちょっと笑っちまう。あんなに真っ赤になって泡食って逃げ出す様子なんざ、鴉王としてのここ二十年のあいつの姿からはまったく想像もできなかったからな。
 いやいや、笑ってる場合じゃねえ。
 一つ首を振ると、俺は執務室から出てネサラの部屋を目指した。
 ネサラの部屋は同じ階の東の端から二番目。隣になる一番端の小さな部屋はネサラが希望して、本ばかりが置いてあるいわゆる図書室だ。

「入るぜ」

 主はいねえが一応声を掛けて赤みを帯びた木製の扉を開くと、冷たく湿った空気を感じた。
 春が近づいてきたとはいえ、今はまだ冬だ。セリノスは冬でもかなり暖かい。それでも、暖炉を使わず、窓もほとんど開けないまま置けば石造りの壁から染み出る冷気で簡単に冷えちまう。
 あいつは寒がりだから、この部屋に帰るのが嫌だったってのもあるかも知れんな。少なくとも俺の部屋は寒くはない。
 カーテンを開け、窓も開けると、すぐに部屋の中がはっきりと見渡せた。
 一介の外交官になるんだ。過ぎた待遇はいらない。
 ネサラはそう言ったが、俺も何度か訪ねたことのあるキルヴァスの私室を見て、あいつの好みは大体わかってる。
 元来、鴉ってのは美しいものが好きなんだよ。俺たち鷹は住処なんて実用一点張りで不自由がなければそれでいいんだが、あいつらはベオクの家具職人が作った調度品の繊細な曲線であったり、細けぇとこに埃が入り込んで手入れが面倒なだけだろうってぐらいに細やかな彫刻の施されたランプや、季節の花が描かれてたり金で装飾されてたりする飾り物のような食器を好む。
 この部屋は広さこそねえが、鴉の中でも飛び抜けて目利きであるネサラのことを第一に考えて設えたものだった。もちろん、金の出所は俺の個人的な分からな。敷物から壁紙、こまごまとした調度品に至るまで全てを選んだのはニアルチとシーカーの二人だ。
 痩せて生気の薄れたあいつを、適当に寝台と執務机を置いただけの殺風景な部屋に放り込むってのは俺ができなかった。
 ただまあ、せっかくあいつらが骨を折ってくれたってのに、肝心の主はほとんど俺の大雑把な作りの部屋で寝起きしてんだから、そこは悪かったと思う。

「……王」

 執務机に置かれたあいつの気に入りらしい凝ったデザインの文鎮を手慰んでいると、遠慮がちな声が掛けられた。開いたままの扉の向こうに現れたのは腹心の一人、「順風耳」持ちのウルキだ。

「ウルキか。なんだ?」
「お耳に入れようか迷う内に、良くない事態になったようで……申しわけないと」
「ネサラのことか」
「はい…」

 そういって視線を伏せると、ウルキは静かに扉を閉めて入ってきた。

「俺がこんなとこに入り浸ってちゃ、またいらん噂話が湧いて出そうだな」
「笑い事ではありません。飛び出していった鴉王の様子を見て…またあらぬ憶測をしている者も出ています」
「あー…なんだ? 俺がまたなにか苛めたってか?」
「…………」

 がりがりと頭を掻いて訊くと、ウルキは答えずにただ困ったような視線で俺を見た。
 どうやら、そうらしいな。しかもさらに良くねえ想像をされちまってるわけだ。

「出所はどこら辺りだ?」
「私が戻った時には…既に広まっていました。ですから、特定するのは難しいかと思います」
「そうだったな。それで、深刻なのは鴉か?」

 半ば答えがわかって訊いたつもりだった。だがウルキから返ったのは沈黙で、俺は正直意外な気持ちで身体ごと向き直る。

「鷹の方なのか?」
「この場合の深刻、という意味を私が感じる意味合いで論じるならば……ですが」
「そいつァ穏やかじゃねえな」

 どういうことだ?
 視線で促すと、ウルキはしばらく辺りの気配を探るように沈黙して、それから低い声で話し始めた。

「キルヴァスの裏切りについては『血の誓約』に縛られてのこと…。それもきっかけは我ら鷹の民がかつて鴉の民を…力ずくで追い出したことでした。表向きには鷹と鴉の性質の差だということになっていますが……」
「ああ。確か揉め事が重なったところに飢饉が起こったんだったな。それで、雑食の鴉が出て行くことになったと」

 フェニキスの歴史ではそうなってるが、実際は鷹の民が力で劣る鴉を追い出した。揉め事が多いとかなんとか理屈をつけてな。
 当時鴉の嫁さんを亡くしたじいさんからそう話を聞いたことがある。まだ二百年やそこら昔の話だから、その事実を知ってる者も少なくねえ。

「はい…表向きには。フェニキスに残ったことで戦死した者たちの身内など…一部を除けば、今ではほぼ鷹の民全てが鴉王に同情的になっております。……これまでの人を食ったような鴉王の態度も変わりましたし…なにより鴉王を敬愛してひたむきに従う鴉の民の様子も、胸を打つものがあったようです……」
「ああ。だから鴉の連中が俺に対して不満を持つのはわかる。今思えば確かに誤解されてもしょうがねえことをやってたしな」
「はい。……ですが鴉たちは恐らくニアルチ老にとりなしていただければ、概ね誤解は解けるかと思われます。鷹の民の方は…鴉たちと親しくなるうちに肉体的な差異に改めて思い至り、王とはいえ鴉王も自分たちに比べてきっと非力なのだろうと……。そのような誤解をした者が出ています」
「非力!? 待て待て待て! そりゃ俺に比べりゃ細っこいが、それでも今の鷹の連中でネサラに勝てる奴はいねえぞ!?」

 これは本当だ。
 確かに腕力だけなら鷹に分がある。だが、「疾風の刃」と呼ばれるあいつだけが使う風切りととんでもねえ素早さは、鳥翼族どころか、恐らくはラグズ全体の中でも並ぶ者はねえ。化身したあいつとやりあうとなりゃ、それこそ俺やニケ、竜鱗族や獅子王でもなけりゃ命がなくなる。
 大体、ラグズの王ってのはその種族で最強の者ってことだ。ラグズのくせに相手の強さを測り損ねるなんざ、一体全体、どこでそんな誤解をしたんだ!?

「それはそうですが…このところ、皆が見ている鴉王は常に王の隣でしたので」
「あー…、その、なんだ。それでやたら華奢に見えたと?」
「恐らくは……」
「しかも俺が朝から晩まであいつを離さねえってんで、もしや無理やり手篭めにでもしてんじゃねえかとか」
「はい…」

 頭が痛くなったような気がしてがっくりと項垂れると、ウルキはさらにとどめを刺して来やがった。

「…鴉王は…本来ならばこの歳でようやく王位に就くかどうかという若さです。まして王と並ぶと…あの通りの見目ですから。今や鷹王どころか、鳥翼王ともなろう者が…庇護せねばならない虐げられた若輩の王をいいように嬲るなどもっての他。……そのような卑怯者は王位に相応しくないとの声が聞こえます」
「そりゃ凄まじいな。あのネサラが庇護してやらなけりゃならん若輩の王ねェ……。そんな可愛いモンなら、俺もあいつの処刑を撤回するのに苦労はしなかったんだがな」

 笑い事じゃねえんだろうが、事実無根となりゃ気楽なもんだ。笑うしかねえ。
 若いだけで侮られるってのは悔しい話だが、こればかりは本人にゃどうしようもねえし、言いたいことはわかる。
 だがネサラはラグズ王の中でも一番の切れ者だ。そんな風に思われて誤解が生じたなんて知った日には、あの舌鋒鋭いネサラにどんな厭味を言われることやらぞっとするぜ。

「もちろん…全てを信じている者は多くはありません。ただ…王よ。キルヴァスを…なにより鴉王を赦したことで不満を持つ者と、王自身に悪意を持ってこの噂を利用しようと企む者もおります。……ヤナフもいずれ話すつもりのようでしたが、私と二人でもう少し事を調べてからという気持ちがありましたので……」
「ああ、わかった。俺も不穏な連中がいるのは知ってたからな。今はまだそばに置いた方がいいだろうと思ったんだが……まさかそう思われるとはなァ。我ながら情けねえ話だぜ」

 俺は俺なりにやってる。あいつもそうだっただろう。
 全ての民が納得の行くようにはなかなかできるもんじゃねえ。
 特にネサラのことに関しちゃ、結果的には私情を優先しちまった部分が大きい自覚もある。
 もちろんあいつの持つ知識や見識の広さは当然として、ベオクの生活、習慣、さらには政治に精通している上、外交の場でベオクの海千山千の連中と対等にやりあえるような人材が他にいなかったってのがなによりも大きいんだが。
 そう思いながらため息を堪えていると、ふと見慣れた冷静な眼差しに暖かな表情を浮かべたウルキが言った。

「王。……この頃では鴉王の態度も軟化していましたし、王は元々雛の頃から鴉王を可愛がっていました。この二十年…届かなかった手の分を伝えたかったのだということは…私も…ヤナフもわかっております」
「…………」
「ただその態度を良からぬ方向に思い込んだ者がいただけですから、あまり気になさらなくて良いかと……。それよりも先の話の連中については私も気をつけますから…王は鴉王のいない分の穴をどうぞ埋めてください」

 いつもは言葉数の少ないウルキが考えながら懸命に紡いでくれた言葉に、俺は苦笑して頷いた。確かに新しい鳥翼国の内政を取り仕切る中心はネサラだ。
 せめていない間ぐらいは片付けておかねえとな。もちろん、まだまだあいつから仕事を奪えねえ。あいつが戻るまで放っておいてもいい書類は溜め込むことにしてよ。
 ウルキが一礼して去った後、俺も遅れてネサラの私室を出た。
 これ以上いらん誤解をさせるのも阿呆らしいからな。後は真面目に執務室で仕事に励むことにしたんだ。
 ネサラの真似じゃねえが区切りの良いところで休憩を挟んで、その間はキルヴァスのネサラの私室から押収した古い日記をめくる。これは代々のキルヴァス王が残した記録だ。
 女神との戦いのあと、このセリノスの一室で裏切りに対する裁きを待つ身になったネサラに「これはなんだ?」と見せると、自嘲的に笑って言いやがった。

『一言で言うと日記だ。代々のキルヴァス王のな。キルヴァスで一番の機密だが、血の誓約そのものを隠す必要がなくなった以上、今さら俺がその日記の閲覧の権利についてどうこう言える訳がない。読みたければ読んでみろ。……もっとも、全て古代語で書かれてるんでね。俺は訳したりしない。ニアルチやシーカーも俺の命令を絶対に守るから無理だぜ。あぁ、かといってリュシオンにも頼むなよ。あいつが倒れる』

 つまり、それだけの内容が書いてあるわけだ。
 俺は古代語は多少聞き取れるだけで、話すことはできねえ。
 だからあいつはタカをくくったんだろう。どうせ読めるはずがないと。
 俺もその時に答えた。

『そうか。だったら自力でなんとかするさ。キルヴァスには一応古代語の辞書もあるようだしな』

 ネサラはそれきり視線を合わせず、ただ沈黙した。
 まあ、な。話せねえ、書けねえのは事実だ。だが俺は一度も「読めねえ」とは言ってない。
 もっとも、俺が古代語を読めるってことを知ってるのはヤナフとウルキだけだ。あいつが知らねえのも無理はねえ。
 日記の始まりは、「次代の鴉王へ」と書かれている。問題の誓約を結んだ一代目が死の間際に書き残すことに決めたものらしいな。
 そんな誓約を交わしちまった理由については特に触れていない。
 ただベグニオンに、元老院に逆らえば民が死ぬ。そのことが半狂乱とも言える執拗さで書かれている。あとはひたすらに民への罪悪感で押し潰されそうになっていた。
 次の王はまあ理性的な方だ。信じ難いことだが、事実らしいと淡々とした一文から始まり、この誓約を結んだ経緯の推察が書かれていた。あとはまあ、元老院になにを言われてどう答えたとか、かなり事務的だな。
 鴉の娘を差し出せと言われて突っぱねて呪いが発動して、転がり落ちるように文章が乱れて途絶えた。
 そして三代目だ。なかなか頭の切れる王だったらしい。逃れる術はないか、命令が文書でなくても発動するのは魔力が理由ではないのか、言葉に乗せることが必要なら、こちらからなにか抜け道は作れないか。
 相当に頭を使って努力したが、元老院の連中からのエゲつない要求が増えて行き、最後には「私は、民を守ろうとしているのか、民を殺そうとしているのかわからない」の一文で終わっていた。
 ……鷹に触れていたのは何代目だったか。フェニキスをもう憎んではいない。あの大地が恋しいとも思わない。
 ただ、鷺も、鷹も、同じ鳥翼の仲間として、せめて巻き込まないように。
 俺たちが勘付いても呪いは発動するかも知れない。その恐怖が伝わった。
 形は違っても代々の王が皆助けを求めて、諦めて、また求めて、耐え切れずに狂って行く様が生々しい。
 中には日記を書かなかった王もいたようだ。ネサラの前の代の王は比較的冷静な方だったが、最後の方は乱れに乱れた字で書いていた。
 誓約のことさえまだ伝えられていない状態で、自分は死ななくてはならないかも知れないと。最後の下りはもう判別はできねえが、ところどころ滲んだインクが恐らく涙の痕だろう事はわかった。
 最後にネサラだ。フェニキスとキルヴァスの建国は四十年の開きがあるが、それでもフェニキスが二百六十年あまりの歴史の中で俺が三代目の王位だったのに対し、キルヴァスはネサラで十八代目になっていた。
 見慣れた美しい字が、五冊目辺りの王がやったように今までの情報をまとめ、そこに自分なりの推測を入れ、検証できるものはしていっていた。ネサラも相当ぎりぎりの線で。
 それから、遠からずキルヴァスがラグズを裏切らなければならなくなる可能性も早々に示唆していた。
 歴代のキルヴァス王の中、二十年もったのは数えるほどしかいねえ。その間に、ネサラが書き残した文章は多かった。
 文章に感情的な乱れはほとんど見られない。ただ、ところどころ、俺にも覚えのある内容が書かれていて少しな。胸が痛くなったりもした。
 俺が事情を知らずにあいつを叱り飛ばした下りで、あいつは苦しんでたんだろうってのがなんとなくわかっちまったからな。
 最後のページは、「次代の鴉王へ。いや、もしかしたらもう王さえいないかも知れないが、左右どちらかの手首に赤い印を受け継いだ者へ」の見出しから始まっていた。
 ……ラグズ連合を裏切った後、だ。
 淡々と、そうしなくてはならなかった理由、俺たちが赦さないだろうということ。混乱するだろう民のまとめ方などがあいつにしてはずいぶん急いだ様子で走り書きになっている。
 王さえいないかも知れねえってのは本当の話だな。キルヴァスにはもう、あいつの他に王位を務められるヤツが残っていないし、育ってもいない。
 確かこの後なんじゃなかったか? あいつがサナキを救出しに動いたのは。
 女神との戦いを終えてサナキが返還を宣言した後すぐこのセリノスに移って、あいつは精根尽き果てたように静かだった。
 話しかければ答えはする。投げつけられるどんな侮蔑の視線も、声も、あいつは真摯に受け止めた。
 俺たちには理由を知る権利がある。ただその一言で閉ざされたあいつの口を割らせたのは俺だ。
 もっとも、出てくるのはただ淡々と実際に起こった事実だけで、そこにあいつが足掻いた内容はなにも含まれていなかった。
 言わなくても見えてくるものはあるのによ、それにさえ目を伏せて沈黙しやがった。
 先にガリアが赦した事実がなけりゃ、こっちも厳しかったろうぜ。あとはなにより、クリミアとベグニオンから届いた助命嘆願か。デインも遅れて送ってきやがった。
 特にベグニオンから来たのは大きい。その上、皇帝サナキが本人自ら書状を持って乗り込んできやがったからな。
 ざっと読んだだけでも、頭の痛い話だぜ。とりあえずもう読んじまったってのはまだ黙っていた方がいいな。ようやくあいつも歩き出してくれたところだし、今以上に余計ないざこざは避けてぇとこだ。

「じいさんか? 入れ」

 ため息をついて古い本のような日記を鍵つきの引き出しにしまうと、俺はさっきから遠慮がちに扉の前に立ったままの気配に声をかけた。
 やっぱりな。入ってきたのはニアルチだ。

「失礼いたします。お邪魔ではありませんかな?」
「大丈夫だ。あんたにはうちの新米文官どもが世話になってるな。本当はネサラに付きたいだろうに悪りぃと思ってる」
「そのようなことは。ただ、この老いぼれにも新しい国の役に立てるところがあるのはなにより有難いことでございます」

 腰の曲がった老鴉はそう言ってすっかり髪の薄くなった頭を下げる。
 いよいよネサラの保護者に怒鳴り込まれたかと弁解を考え始めたところで、先にニアルチに言われた。

「ウルキより伺いました。鳥翼王様、我ら鴉に愚かな誤解がありましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「ああ、いや。俺も紛らわしいことをしていた。まさかそんな話になっていたとは露知らず、不安な思いをさせちまったな」
「そのようなこと。我らはぼっちゃまが辛い思いをしていなかっただけで充分ですじゃ」

 ははは、さすがはぼっちゃま一番だ。この分だと鴉の方は心配なさそうでほっとしたぜ。
 茶を淹れようかと訊かれて頷くと、ニアルチは暗くなってきた室内を見回してランプに火を入れ、慣れた手つきでややこしい作法通りに茶を淹れながらしみじみと言った。

「思えば、ぼっちゃまは鳥翼王様には面倒をかけ通しですのう」
「あ?」
「もう十…何年前でしたかな。キルヴァスが飢饉に見舞われた時に、訪ねて来て下さいましたでしょう」
「ああ、……そう言えば、そんなこともあったっけか」
「あの頃にはもう、キルヴァスの、特にぼっちゃまの評判は地に落ちていました。それなのに鳥翼王様は迷わずキルヴァス城に来られて、駆けずり回って憔悴なさったぼっちゃまに力強くおっしゃってくださった。俺を頼れと」
「俺も今より若かった。直球過ぎて思いっきり突っぱねられたがな」

 こいつはちょっとばかり苦い記憶だ。普段ならキルヴァスのことなんざ口にもしねえヤナフとウルキが、キルヴァスの飢饉が酷くて雛まで死んでいると言ってきたんだよな。
 キルヴァスの食糧難はいつものことだが、特に冬は厳しい。俺も毎年気をつけていたが、そこまで酷い状態を聞いたのは初めてだ。
 とりあえず三人で持てる限りの食いモンを持って訪ねると、城の私室に座っていたネサラは傍目にもはっきりわかるほど痩せて、憔悴しきっていた。
 それでも口は相変わらずだ。意地でも突っ張ろうとしやがって、ムカついて怒鳴っちまったんだよなあ。

「鳥翼王様が救援を申し出てくださったおかげで、あの冬はそれ以上の死人は出ませなんだ」
「それで充分だ」

 一冬、せめて民が死なないように。そのくらいは同じ鳥翼の仲間だ。取りに来い。
 そう怒鳴ると、ネサラはしばらく黙って、力なく項垂れて言ったんだ。
 そんなことをされても、なにも払えないと。さすがに殴りそうになった。
 なったが、それでも手を上げられなかったのは掴んだ肩があまりに細かったからだ。まだガキだったんだよなあ。
 そんなものいらねえと今度はヤナフが怒ったら、今度こそ泣くんじゃないかって声でぽつりと言われた。

『この季節は、フェニキスの海峡の風が荒れすぎる。まして弱った鴉の翼じゃ……』

 そうだった。忘れていたのはこっちが悪い。
 一番風が厳しいこの季節、フェニキスとキルヴァス間を往復できるような鴉は数えるほどしかいねえだろう。そんな人数でろくな物資は運べねえからな。
 それなら、勝手に運んでくる。そう言うと、ネサラは弾かれたように顔を上げて叫んだ。
 何も返せない。そんなことをされても礼も言えない。だからやめてくれと。
 俺は答えた。どんなに施しを受けたくねえ相手の手でも、民の命がかかってんだろうが。そんな安っぽい誇りならドブに捨てちまえ! なんてな。
 誓約のことを知らなかったからだが、……今思えば残酷なことを言っちまったもんだ。
 あいつは誰よりもその誇りを犠牲にしてきただろうに。
 文句を言っていたわりに、一番精力的に動いたのはヤナフだった。あいつは元々が面倒見の良い兄貴分だからなあ。俺だって雛の頃は面倒見られたぐらいだし。
 城の中庭に積み上げられた救援物資を、鴉の兵たちは信じられないものを見たように呆けて眺めて、ネサラが無表情に俺に頭を下げようとしたところで俺より先にヤナフが止めた。

『こいつは鴉王との取引の報酬だ! 王に感謝しとけよ!』

 なんて言ってな。
 そのあと信じられないものを見たように黒とも藍ともつかねえ目を見開いたネサラに、ヤナフは思い切りそっぽを向いてたっけな。

「あの頃は言葉にこそできませんでしたが、ぼっちゃまはそれはもう恩に感じておられましたぞ」
「俺たちが勝手に押し付けただけだ。あの食料が少しでも役に立ったならそれでいいさ。あいつは苦労ばかりしてたからな」

 もっとも、そりゃこれからも変わらねえが。
 そう言って俺が笑うと、ニアルチも笑って俺の前に茶を勧めながらふと表情を改めた。

「鳥翼王様、もはや我らの誤解は心配いりませぬが、」
「鷹の方だろう」
「そうですじゃ。なにやらそのう……気になりましてな」
「きな臭ぇんだろ?」
「…………」

 なるほど、美味いな。
 じいさんが淹れてくれた茶を一口飲んで、俺は正直に思った。俺はこういったものにゃとんと疎いが、いつもネサラが茶の時間にニアルチを呼びたがるわけだ。
 返事の代わりに沈黙したじいさんを見上げて笑うと、じいさんは別の棚のランプにも火を入れながら伸びた眉毛の下の窪んだ目を俺に向けて声をひそめた。

「お気をつけられた方がよろしいかと」
「忠告、覚えておくさ」

 ネサラのことだけが理由じゃねえ。その連中は俺を王だと認めてねえってところだろう。
 心当たりはある。
 元は強さが条件の鷹の王だ。王の座にこだわる連中ってのは一人じゃねえ。
 こんな面倒臭ぇことせずに正面から挑んでくれりゃ、さっさとその場でケリがつけられるんだがな。

「安心いたしました。それでは失礼いたします。ぼっちゃまのことは……」
「ああ、わかってる。外交官の仕事でしばらくあいつが空けている間に鷹の誤解も解けるよう考えよう。でなきゃあいつがまた顔を上げてセリノスを歩けなくなるからな」

 心配性の老鴉に努めて明るく言ってやると、じいさんも笑って言いやがった。

「ぼっちゃまを大切にしてくださるなら、別段鳥翼王様との関係そのものが真(まこと)であっても我々は良かったのですよ。この老いぼれが生きている間にぼっちゃまが幸せな恋をしてくださるとうれしいというのがじいの本音ですじゃ」
「……おい、待て」
「ぼっちゃまは望まぬ王位を継がされたというのに、王となられてからは民に尽くしてばかりでご自分の幸福にはとんと無関心でしたからなぁ……」

 最後に遠い目をして呟いたニアルチは、「いや、詮無いことを申しましたな」と首を振って出て行った。
 関係が本当でも良かったって、そこは俺よりもリアーネだろうに。
 あんなことを言われたもんだから、出て行く前に抱きしめたネサラの体温を妙に思い出しちまったよ。
 胸に押し付けたあいつの頬がやたら熱くて、熱でも出したかと思った。
 そんな関係、ねェ……。
 あの様子じゃあ、とてもじゃないが手は出せねえな。それこそ、俺がそんな真似した日には、本当に燃えて死んじまいそうだ。
 だが、ネサラの恋か……。リアーネはまだ子どもだからそうなるとしても、もう少し先の話だろう。
 いつかはそんな日も来るんだろうが……。
 その時、あの意地っ張りな蒼鴉はどんな顔を見せるんだろうな?
 妙に楽しみでつい笑いそうになった瞬間だった。

「王! 失礼します!」
「ロッツか、どうした?」

 若い鷹の兵のロッツがいきなり窓から飛び込んできて、立ち上がった俺の前に立ったんだ。

「はい、あの、クリミア近辺に、奇妙な化け物が現れたと報告が入りました!」
「奇妙な化け物? いつの話だ?」
「つい先ほど、ウルキ様がヤナフ様のお声を聞きまして……。申しわけありません。それ以上のことはまだ」
「ウルキは?」
「おれにこのことを王へ報告するよう指示して、気になる音がするとすぐに飛び立たれました」

 気になる音……?
 いや、それより今はその化け物の方が問題だ。ネサラとヤナフの二人が一緒でなにかあるはずはねえ。
 そう思うのに、どうにもチリチリと胸に沸き起こる奇妙な感覚を俺は押し殺せなかった。

「わかった。ウルキが戻るのを待って対策を決める。ロッツ、このことは他の連中は知っているのか?」
「いえ、ウルキ様はおれにだけ耳打ちなさいましたから」
「それなら指示があるまで黙っとけ。顔にも出すなよ」
「は、はい!」

 固い顔で頷くと、ロッツはまた窓から出て仲間の下へ戻る。
 その背中を見送りながら、俺はいつの間にか太陽が傾いて暗くなり始めた空を見上げて低く舌打ちした。
 ウルキはヤナフと違って夜目は効かねえ。暗くなってくると飛ぶのも危ない。
 それなのに俺の指示も仰がず飛び出したことが、どうにも不吉なことの前触れのような気がして落ち着かなかった。




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